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Channel: 神社とお寺の参拝日記
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岡山 倉敷市 鯉喰神社 ( こいくいじんじゃ )

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ミコトはここに神力(かみちから)を現し、千釣 ( せんつり ) の強弓を以って一時に
二矢を発射したところが、これはまったく鬼神の不意をつき、一矢は前の如く噛み合うて
海に入ったが、余す一矢は違わず見事に温羅の左眼に当たったので、流るる血潮は
混々として流水のごとくほとばしった。
 
さすがの温羅もミコトの一矢に辟易し、たちまち雉と化して山中に隠れたが、機敏なる
ミコトは鷹となってこれを追いかけたので、温羅はまた鯉と化して血吸川に入って跡を
くらました。ミコトはやがて鵜となってこれを噛みあげた。
 
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温羅伝説 HP を転載しました。

雉になった、鯉になった、というのは温羅の様々な戦法を表しているのでしょう。
様々な戦法に大吉備津彦命が対応、最後に勝利を得た、ということを伝えているのでしょう。
矢喰神社の横を流れる血吸川は、足守川に合流します。 
鯉になった温羅を鵜になった大吉備津彦命が噛みあげた場所、そこが鯉喰神社です。
 
血吸川の下流、足守川。
 
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鳥居をくぐったところに、備前焼の狛犬が建っています。
 
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数年前、鯉喰神社の狛犬が盗まれたというニュースを聞きましたので、あれ?と思いました。
実は4年前に鯉喰神社を参拝しており、その時に眺めた狛犬と同じだったからです。
 
狛犬の向こう側に祠がありました。
 
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この唐獅子は、平成27年に東南に遭いましたが、地域に方の強い願いが届いたのか、
無事に返ってきました。 ご自由に竹札に願いを書いて御奉納ください。
 
                                              ( 説明文 )

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返っていたのですね。 知らなかった。
二度と盗まれないようになのか、足はコンクリートで固められています。
 
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随神門の左前に水盤。
 
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願い事が書かれた竹札は、随神門をくぐりぬけたところの柱に掛けられます。
 
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右に梵鐘。 備中国では梵鐘がスタンダード、という訳ではないと思いますが、
ここのところ参拝したお社には梵鐘がありました。
 
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吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅が村人達を
苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに
従うと温羅はついに矢つき、刀折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。
 
すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人達は
ここに鯉喰神社を建立した。
 
社殿は元禄14年 ( 1701 ) 4月、天保13年3月に造営し現在に至った。
大正6年4月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀した。
大正6年10月4日、神饌幣帛供進神社に指定された。
 
岡山県神社庁 HP を転載
 
拝殿に向かって左には、多くの境内社が鎮座されます。
 
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地神。出雲国の社日神社に当たるのでしょう。
 
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本殿の左には、境内社が鎮座されます。
手前は 「 天神社 ( 菅原道真命 )・大元神社 ( 天御中主大神 ) 」。
奥は大歳神社です。
 
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備中国・備後国に鎮座されるお社は、出雲国の影響が大きいのか、境内に大歳神社が
鎮座されることも多いようです。
 
本殿は一間流造です。
 
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本殿の右に境内社が鎮座されます。 奥が素戔嗚神社、手前は御社名不明です。

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拝殿からの眺め。

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以上。
 

岡山 岡山市 矢喰宮 ( やぐいのみや )

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岡山自動車道の岡山総社ICを降りたすぐ東に、矢喰の岩公園宮があります。

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矢喰の岩公園の中に矢喰宮が鎮座されます。
 
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鳥居の内側に、巨大な岩が置かれています。
 
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郷土記念物 矢喰の岩。
 
これらの岩は、吉備津彦命と鬼神温羅にまつわる伝説の中で、
吉備の中山に陣取る吉備津彦が射た矢と鬼ノ城に居た温羅が投げた岩とが
空中でかみ合い落下した。
という云われをもっている。
 
この矢喰天神社は、吉備路のほぼ中央部、血吸川に沿った水田地帯の中に位置し、
境内にある大小五個の花崗岩から成るこれらの岩は、古くからの伝説とあいまって、
地域の人々に親しまれている。
 
岡山県
                                          ( 境内説明文 )
 
拝殿に向かって左に梵鐘。
 
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御祭神 吉備武彦命 ( きびたけひこのみこと )
 
後に天満宮を合祀したので、矢喰神社または矢喰天満宮と呼んでいる。
創立年代不詳。
 
吉備津宮縁起によれば、第十代崇神天皇の時、百済の王子温羅 ( うら ) と
いう者があった。 両眼大きく、毛髪赤く、頬骨強大、身の丈抜群、 その姓
勇敢、腕力絶大、常に仁義を守らず、日本を伺わんとする志があった。
 
本朝に来り諸州を厂覧 ( かんらん ) する内、遂に吉備の国新山 ( にいやま、後方の山 )
に登った。 この地方の勝れたるを見てこの所に大門を起し、城壁を築き矢倉を立てて
城郭をなして居を構え、時には西国より帝京に送る貢物を奪取した。近里に往来して
人民を悩乱せしめた。
 
時の人この城郭を鬼の城と稱し恐れた。天皇勅して大吉備津彦命を派遣して之を征伐
せしめられた。 即ち彦命は兵数千を率いて東の方吉備の中山に陣し、西の方は
日畑西山 ( 倉敷市 ) 楯築山 ) に出で石楯を築き、甲兵を引きい鬼の城に向かい
温羅と戦った。
 
彦命、矢を放てば温羅の矢と空中に噛合い海中に飛び入る。其の所に宮を立てて
矢喰宮と云った。之が今日の矢喰神社である。
彦命 再び千天鉤の矢に大矢二筋を番え ( つがえ ) 発したところ その一矢は
喰い合って前の如く海中に飛び入ったが、他の一矢は温羅の左眼に命中した。
流血で流水の如くであった。其の所を名ずけて血吸川と云う。
 
是に於て温羅は雉となって山中にかくれたが、命は鷹と化して之を追うた。
次には鯉と化して血吸川に入ったので命は鵜と化して噛んで之を揚げ、その所を
名ずけて鯉喰宮と云った。 ( 東南二キロにあり )
温羅、遂にすいきを垂れ鋒刀を棄てて降ったとある。
 
以上は吉備津彦命にまつわる物語で この地方に昔から語り伝えられている伝説
である。左側の砂川が血吸川で血吸石がある。当時このあたりは海であった。 
 
高松観光協会
                                            ( 境内説明文 )
 
四道将軍の大吉備津彦命の異母弟もしくは子が稚武彦命 ( わかたけひこのみこと ) で、
その子が御祭神の吉備武彦命です。
 
彦五十狭芹彦命 ( 大吉備津彦命 ) --- 稚武彦命 ( 吉備津彦命 )
ひこいさせりひこのみこと               わかたけひこのみこと
                                |
                                |
                               吉備武彦命
                               きびたけひこのみこと
 
本殿。

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拝殿からの眺め。
 
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御神域の横を流れる血吸川。
 
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血吸川は足守川に合流し、鯉喰神社のそばを流れていきます。
 
以上。
 

岡山 総社市 鬼ノ城 ( きのじょう )

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随分前に、テレビで岡山県総社市の鬼ノ城の紹介がありました。
吉備津彦命 ( きびつひこのみこと ) と闘った温羅 ( うら ) が住んでいた山城で、その頃は
周りは入江であった、といった紹介があり、いつかは行ってみたいと考えておりました。
 
その後総社には何度か訪れておりましたが、鬼ノ城は山奥ということもあって、行くことが
出来ておりませんでしたので、車を借りてエイヤッと行くことに決めました。 
それと一緒に、このBlog で紹介した大吉備津彦命の伝説地を巡ってきたのです。
 
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途中、砂川公園という広い公園があり、家族連れや仲間の団体がバーベキューを
楽しんでおりました。 総社市のバーベキューのメッカといった感じです。
 
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公園を過ぎると、細い山道になりました。
数十mごとに待機場所が造られていて、車がすれ違うことが出来るようになっています。
 
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道が通されたときには、一台の車が走れる程度の幅しかなくて、交通量が増えたので
あちこちに待機場所を作ったようです。 こんなに頻繁に待機場所が作られている道は
初めてでした。
 
少し道が広くなったところにあった鬼の釜。

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口径約185cm、深さ約105cmの大きな鉄の釜です。 そこの一部が欠けています。
釜は鋳物で製作されたもので、鋳型のつぎ合わせた痕が明瞭に残されています。
 
その昔、鬼ノ城に住んでいた温羅 ( うら ) と呼ばれる鬼神がいけにえを茹でたと
言い伝えられていますが、江戸時代に近くの湯釜谷から出土したという事実からも
山岳寺院であった新山寺の湯屋に使用された湯釜と考えられています。
 
                                              ( 説明文 )

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ここから少し先に進んだところに、鬼ノ城ビジターセンターがあります。
鬼ノ城の玄関みたいなところで、鬼ノ城遺跡に関する展示があります。
鬼ノ城の遺跡は、ビジターセンターから10分程度で行くことが出来ます。
 
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鬼ノ城は標高約400mの鬼城山に築かれた古代山城です。 吉備高原の南端に位置
しており、眼下の総社平野には集落が営まれ、官衙 ( かんが、役所 ) 寺院などが
造営されました。 また、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津 ( 港 ) から瀬戸内海
への海上交通に至便であり、まさに政治・経済・交通上の要地を一望できます。
 
築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため
出兵した白村江の海戦 ( 663年 ) において大敗した後、唐・新羅連合軍の日本進攻を
恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。 鬼ノ城は当時の
東アジア情勢を鋭敏には寧した遺跡と言えます。
 
平成16年1月 総社市教育委員会
                                           ( 説明文 )
 
現在の鬼ノ城は、白村江の戦いに敗れた直後に建築された山城の遺構でした。
七世紀後半です。
一方、日本書記によれば四道将軍の大吉備津彦命 ( おおきびつひこのみこと ) は
第十代崇神天皇の時代に派遣されています。
 
山門県 ( やまとのあがた、福岡県柳川市・みやま市 ) は邪馬台国の有力候補地で、
日本書記によれは第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后が、首長の田油津姫
( たぶらつひめ ) を殺しています。田油津姫を卑弥呼とする説があり、私も同じ意見です。
 
卑弥呼が三世紀半ばに亡くなっていますので、 四代前の天皇の時代といえばおおまかに
二世紀前半から二世紀半ば当たりになると思います。
 
温羅と大吉備津彦命が戦ったのが史実かどうかは別にして、朝鮮半島由来の人物が
治めていた集団 ( 吉備地方の軍隊 ) と大和朝廷から派遣された軍隊の戦いはあったと
私は考えています。
 
鬼ノ城は、吉備地方の軍隊の拠点であり、白村江の戦いの後に対新羅・唐の山城として
整備されたのではないだろうか?
 
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人工的に加工されています。

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展望台から眺めた鬼ノ城西門。
 
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展望台からの眺め、平野はかつて入り江でした。
 
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鬼ノ城 角楼。
 
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中国の城郭でいう馬面 ( ばめん )、朝鮮半島での雉 ( ち ) に当たります。
ここは尾根続きで責められやすいため、城壁の死角を補い防御力を高めることを目的
として、城壁の一部を長方形 ( 13×4m ) に張り出しています。
 
角楼の下半部は、両側の石垣と同じように石垣積みで、ほぼ4m間隔で一辺50cmの
6本の角柱が石垣の間に建っていたことがわかりました。 また城内側には、この施設へ
昇降のため石段が設けられています。
しかし、この上に建物などがあったかどうかは不明です。
 
最高所の鬼城山・西門と一体となっていて、強固な防御ゾーンを形成しています。
 
平成19年3月 総社市教育委員会
                                              ( 説明文 )
 
土塁と西門。
 
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土塁は、中に繋ぎのようなものを入れていますが、表面が雨や風におとされて、外側に
現れています。 
 
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西門。
 
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西門跡は極めて良好な状態で残っていました。 12本の柱の一と大きさ、埋め込まれた
不可さ、各柱間の寸法も正確に知ることが出来、また通路床面の石敷や石段、敷石も
良く残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることが出来る。
 
そこでこれらの資料をもとに関連資料を参考にし、戦闘の場としての機能を考慮して
三階建ての城門に復元しています。 一階は通路、二階は城壁上の連絡路、三階は
見張りや戦闘の場としての機能をもつものです。 屋根は丁さと木にも瓦は出土して
いないので、板葺きにしています。
 
古代山城の城門の復元例としては、日本で初の事例です。
 
平成19年3月 総社市教育委員会
                                               ( 説明文 )
 
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鬼ノ城は、四ヶ所に城門を設けています。 いずれも掘立柱の城門で、通路床面に大きな
石を敷き、床面と城門前面に2m近い段差を持つ ( 懸門 ) ことを特徴としています。
 
西門は、南門と同規模の大型の城門で間口3間 ( 12.3m )、中央1間を通路とし、
2間の奥行をもち、12本の柱で上屋を支えます。 柱は一辺最大60cm の角柱を2mほど
も埋め込んでいます。
 
本柱に合わせたくり込み、方立柱穴、軸摺り穴、蹴り放しが一体的に加工された門礎を
もつのは鬼ノ城のもののみです。 西門は日本最大の古代山城大野城の大宰府口城門
( 間口 8.85m ) をしのぐ、壮大堅固な城門です。
 
平成19年3月 総社市教育委員会
                                               ( 説明文 )
 
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内部から撮った西門。
 
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角楼から眺めた西門。
 
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西門から南門方面へ。
 
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敷石
 
鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石を多数敷き詰めています。 幅は基本的に1.5m幅
で、城内側の広い所では5m幅にもなる所もあります。 敷石は多くの区間に敷かれており、
総重量は数千トンにもなります。
 
この石畳のような敷石は、通路としての役割もあるものの、敷石の傾斜などからみて、
もともとは雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。 敷石は、
日本の古代山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。
 
平成19年3月 総社市教育委員会
                                                  ( 説明文 )                      
敷石には、×印が彫られていました。 

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1400年前の傷とも思えないので、山城を復元したときに付けたものだと思うのですが、
なぜ付けたのか、ビジターセンターで尋ねるつもりでしたが忘れてしまいました。

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第二水門
 
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水門と土塁
 
水門は、水流れに堪えるよう下部の内外面とも石積みにし、上端に取水口を設けており
上部は土を少しづつ入れて突き固めた版築土塁にしています。
規模は、第一水門が長さ14.6m、第ニ水門は16.4mです。
 
二つの水門の間にある土塁は、現状をよくとどめており、ここでも城外側に幅1.5mの
敷石の通路があります。
                                               ( 説明文 )
 
城を維持するために石を敷いて雨水のはけを良くして、貯水池にいったん貯めます。
それを放水するために水門を設けています。
 
鬼ノ城の周囲をぐるっと歩くコースが用意されていますが、私は第2水門から引き返す
ことにしました。
 
ビジターセンターで鬼ノ城の学習。
 
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ビジターセンターの展示物は写真撮り放題ですので、展示物や説明文を合わせて
100枚ほど撮りました。 当初は全をBlogに掲載しようと考えていたのですが、
やめました。 放映されている説明ビデオもわかりやすかったですので、御興味が
ある方はぜひとも行ってみてください。
 
以上
 

岡山 総社市 阿宗神社 ( あそうじんじゃ )

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阿宗神社は、鬼ノ城から直線で2㎞南の所に鎮座されます。
実際にはいったん総社平野まで降りて、もう一度山腹に鎮座される阿宗神社に向かいます。
 
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山の頂上に鬼ノ城が見えます。

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灯篭は鉄製です。
 
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阿宗神社が鎮座される阿曽の郷は、古くからタタラ製鉄と鋳物が盛んで、タタラ製鉄技術を
百済から伝えたのが温羅 ( うら ) と言われています。
 タタラ製鉄が始ったのは6世紀初めといわれておりますので、温羅が百済から渡って来た
のも、早くてその頃です。
大吉備津彦命が四道将軍として吉備に派遣されたのは2世紀初めから中頃
( 神功皇后が卑弥呼の時代とかぶったとして、ですが。)

温羅と大吉備津彦の時代が合いません。

吉備津神社のHPで、鳴釜神事の説明があります。
 
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この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。
命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ、
唸り響いて止むことがありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて
髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、
それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。
 
命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて

 『吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に
  事あれば竃の前に参り給はば、幸有れば裕に鳴り、禍有れば荒らかに鳴ろう。
ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。
我は一の使者となって四民に賞罰を加えん。』

とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。
これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております。
 
お釜殿にてこの神事に仕えているお婆さんを阿曽女 ( あぞめ ) といい、温羅が寵愛した
女性と云われています。鬼の城の麓に阿曽の郷があり代々この阿曽の郷の娘がご奉仕して
おります。
 
またこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、お釜殿に据えてある大きな釜が
壊れたり古くなると交換しますが、それに奉仕するのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目
であり特権でもありました。
 
三備一之宮 吉備津神社 HP
 
温羅の妻 「 阿曽姫 」 は阿曽の郷で神社に奉仕されておりました。
そのお社が、これから参拝する阿宗神社です。

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10段ほど上がると踊り場があり、10段ほど上がると踊り場があり、を10回ほど繰り返すと
境内になります。 こういった石段も珍しいですね。 私は初めてでした。
 
この日は例大祭で、子供たちが納めた燈籠が飾られておりました。
 
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右に梵鐘。 今回参拝した神社のスタンダードとなっています。
 
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随神門の左前に水盤。
 
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出雲国に鎮座されるお社の随神の多くは、参道を中心に向き合う形で鎮座されて居り
ますが、備中・備後国に鎮座されるお社の随神は、たいていこのように参拝者に向いた
方向で鎮座されます。
 
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2つの拝殿が並んでいるように見えますが、向かって左が拝殿です。
 
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御祭神 品陀和氣命    (  ほんだわけのみこと 
      息長帯比売命  ( おきながたらしひめ )
      玉依姫尊      たまよりびめのみこと 
      吉備武彦命    きびのたけひこ 
 
由緒
 
吉備武彦命は旧宮原社と称し、旧阿曽村・東阿曽に鎮座されていたが、藩主の木下公が
本神社  旧八幡神社  に合祀されたという。そして、八幡神社と宮原社を合祀後、
社名を阿宗神社と改称した(年月不詳)。
また、20年前迄御神幸が出されていたが、現在は子供神輿,奉納神楽がある。
 
吉備国は古代日本の統一国家大和の王国と戦い、滅ぼされたと伝えられている。
温羅の妻、阿曽姫が巫女をしていたと言い伝えられる。 また、岡山市吉備津には
吉備津神社があり、釜殿の鳴釜神事はお釜の鳴り方によって吉凶を占上田秋成の
 雨月物語  に記載されている。 この行事に携わる巫女を阿曽女 ( あぞめ  という。
 
境内に説明文がなかったため、神社の超有名サイト 「 神社人 」 を転載しました。
 
拝殿に向かって左に、境内社が鎮座されますが、御社名は不明です。
 
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拝殿からの眺め。
 
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以上。
 
 

吉備の冠者 温羅

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岡山駅北口。
 
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長距離バスのターミナルの端っこに、温羅の像があります。

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吉備の冠者 ( 吉備津神社社記より )
 
古代吉備の国に身の丈の大きい若者がいた。
その若者は鬼ノ城に住み、いつも上半身裸で汗を流しながら、鉄で農具等を作り、
里の人に与えていた。 いつしか吉備の里は大いに盛え、その若者を 「 吉備の冠者 」
と呼び、親しむようになった。
 
それを都へ行って暴状として訴える者があり、朝廷は五十狭斧彦 ( いさせりひこ ) 命
を派遣され、その若者はミコトの軍門に下ったとき、「 吉備の冠者 」 の名を献上し、
それよりミコトは 「 吉備津彦命 」 と改められた。 
若者は 「 温羅 」 と言われるようになった。
 
                                                 ( 碑文 )

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大吉備津彦命 ( 五十狭斧彦命 ) は、第十代崇神天皇の御宇、四道将軍の一人として
西海に派遣されています。
 
第十二代景行天皇の妃となった播磨稲日大娘 ( はりまのいなびのおおいらつめ ) は
若建吉備津日子 ( わかたけきびつひこ、孝霊天皇の皇子 ) の娘で、日本武尊を
お生みになります。 名前に 「 播磨 」 とついていますが、その頃の播磨は吉備の
一地域でした。
 
若建吉備津日子は温羅と戦った大吉備津彦命 ( おおきびつひこのみこと、桃太郎 ) の
弟または子といわれます。
 
若建吉備津日子の孫または子である吉備武彦 ( きびたけひこ ) は日本武尊遠征に
従っております。
 
吉備武彦の娘である吉備穴戸武媛 ( きびのあなとのたけひめ ) は、日本武尊
の妃となりました。
 
似たような名前ばかりで混乱するのですが、「 吉備氏族は天皇と強い関係にあった 」
というレベルではありません。 天皇の一族です。
 
吉備穴戸武媛を祀る穴門山神社 ( あなとやまじんじゃ )
 
一方、吉備の国にタタラ製鉄が伝わったのは六世紀始めと言われます。
タタラ製鉄を伝えた集団のリーダーが温羅とすれば、大吉備津彦の時代から400年も
後のことになります。
 
吉備国は、5世紀前半に、全国で4番目に大きな造山 ( つくりやま、ぞうさん ) 古墳を
造るほどの力を既に持っていました。
 
日本書記によれば、雄略天皇はこれまでの地域連合的な国家運営ではなく、支配を
するため吉備氏族を標的とし、五年 ( 463年 ) 、吉備下道臣前津屋 ( きびのしもつ
みちのおみさきつや ) を反乱の罪で滅ぼしています。
 
吉備上道臣田狭  きびのかみつみちのおみたさ  を任那国司として派遣している間に
その妻である吉備稚媛  きびのわかひめ ) を自分の后にしてしまい、吉備上道臣田狭
は帰国できない状態になってしまいます。
 
雄略天皇が崩御された後、妃の葛城韓媛との間に生まれた皇子が清寧天皇になられます。
同じく后の吉備稚媛は、お生みになった星川皇子に反乱を勧め、大伴氏の指示によって
親子ともども焼き殺されています。
 
一旦は力をそがれてしまった吉備氏は、六世紀には復活し各地に横穴式石室をもった
円墳を造るようになります。 王墓の丘にあった楯築古墳や真宮古墳がそうでした。
 
王墓の丘。
 
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おそらくは、鉄の農具・武器などによって吉備の国力が大いに復活したからなのでしょう。
岩倉神社には、加工された多くの巨石積まれていました。
 
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鬼ノ城にも加工された巨石があちらこちらにありました。
 
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矢喰宮の巨石。
 
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これらほとんどは六世紀後半の遺跡とされています。
地図を眺めると、これらは真っ直ぐ一直線に並びます。
 
      鬼ノ城
            阿宗神社
        鯉喰宮               吉備津彦神社
 
          王墓の丘
 
            岩倉神社
 
どの巨石もよく似ています。
一直線に並ぶのは、何か理由があるのでしょう。 ( 理由はさっぱりわかりません。)
 
岩倉神社は大吉備津彦命に稲を捧げた場所 「 稲倉 」 と伝えられます。
持った土が流されて、岩座が現れたので 「 稲倉 」 が 「 岩倉 」 に訛ったと伝えられて
いましたが、あのように人工の巨石が積まれているのだから、そんなことあるわけがない。
初めから 「 岩倉 ( 磐座 ) 」 であったのだと思います。
 
岩倉神社は、横穴式石室をもった円墳なのではないだろうか?
「 稲倉 」 は、何かを隠すための伝説ではないかと思うのです。
( 理由はさっぱりわかかりません。)
 
 ・二世紀、大吉備津彦が西海の賊を打つために派遣されたことと、 
 ・七世紀、タタラ製鉄の技術をもった吉備国が朝廷軍によって討たれたこと、
 ・七世紀後半、タタラ製鉄を伝えた百済人の集団が住んでいた鬼ノ城を、唐・新羅に
  対峙する山城に整えたこと、
 ・吉備国の中心に巨石の遺跡が遺されていること、
 
これらがごっちゃになって生まれたのが 「 大吉備津彦命の温羅退治伝説 」 であり、
その伝説をもとに作られたのが 「 桃太郎の鬼退治 」 なのではないでしょうか。
 
以上。

京都 京都市南区 宇賀神社 ( うがじんじゃ )

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地下鉄烏丸線九条駅と十条駅のほぼ中央を札辻通が走っています。
烏丸線から東へ300mほどのところに、宇賀神社が鎮座されます。
札辻通には宇賀神社参道の石碑が建っておりました。

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宇賀神社参道 ( 宇賀の辻子跡 )
 
ここから東へ約300mの宇賀神社までが昔から多くの参拝者に親しまれた参道で、
山城名勝誌などに記された宇賀の辻子跡です。 境内は史書に藤原鎌足公とのゆかりを
記される宇賀束の跡です。 東九条唯一の参土神社で、ご祭神は伏見稲荷大社の本殿
中央に祭祀されている宇賀之御魂神 ( うがのみたまのかみ ) です。
 
宇賀神社敬神会
                                                ( 説明文 )
 
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左は桜が植えられています。
 
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右に手水舎、 ふたがされて使えません。
 
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拝殿には絵馬が掲げられておりました。
 
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宇賀神社由緒。
 
当神社は宇賀之御魂神を主神とし、併せて天照大神を奉祀しております。
山城名勝誌に
 
宇賀塚は九条の南、東祠院東、宇賀辻子 ( 現在の札ノ辻 ) にあり、土人云う
判官塚の一町ばかり南なり
 
と誌されてあります。
 
また、陶原月輪両塊門図 ( すえはらつきのわりょうかいもんず ) に
 
昔、藤原鎌足公 ( 1300年前 ) がこの辺りを遊猟中に金爾 ( きんじ ) を得、
後世この辺りに都が遷されて我が子孫亦繁富することを予知して、この金爾を
蔵めたのが今の宇賀塚である。
 
と記載されてあるのをみても、宇賀塚 ( 宇賀神社 ) の由来は飛鳥時代や大津の宮の
頃のものであって、京都の数多い神社の中でも極めて歴史の古いものであります。
鎌足公の没後125年を経て、この予知のとおり都が京都に遷されて藤原一族が永く
摂関家として要職を伝えたことは御神徳の顕れとみることができます。
 
祭神の宇賀之御魂神は五穀の神、産業の神であって、繁栄・福徳を招来し給う東九条
唯一の産土神として古くから崇敬を集め、護持継承されて来ましたが、現今商売繁盛、
家内息災、学徳成就、芸能上達、交通安全等に霊妙神通、霊験あらたかなものがある
と信じられています。
 
なお、当社の例祭は毎年九月に盛大に執り行われます。 境内の大椋、銀杏の老木は
樹齢500年を越え、大椋は 「 京都市の巨樹名木 」 及び 「 京都市保存樹 」 に、
銀杏は 「 京都市巨樹名木 」 に指定されています。
                                           ( 境内説明文 )
 
本殿に向かって左に銀杏が聳えています。
 
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本殿に向かって右にも銀杏が聳えています。
 
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その後方に御神木の椋が聳えています。
 
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椋の木は本来、本州以西に原生するニレ科の落葉高木、現存する大木は数少なくなり、
当神社の椋の木は京都で最古の巨樹の一つで、推定樹齢600年近くに達します。
生きる歴史的遺産として貴重な名木であります。
 
京都市文化観光局 
宇賀神社敬神会
                                             ( 境内説明文 )
 
本殿は一間流造です。
 
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以上。
 

京都 京都市南区 新宮神社 ( しんぐうじんじゃ )

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宇賀神社から北へ500mのところに新宮神社が鎮座されます。
 
九条通。
 
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歩道の中央上空に 「 ほうこうしゃマーク 」 が掲げられています。
 
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「 歩行者はここを歩いて下さい。」 なのか 「 歩行者に気を付けて下さい。」 なのだろうか?
 
新宮神社は、九条通りから細道を入ります。
 
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鳥居の両側に、赤い小さな鳥居が奉納されています。
 
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鳥居の柱の下には、塩が盛られています。
 
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左に水盤。

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新宮神社は、速玉社 ( はやたまのやしろ ) とも呼ばれた。九条家の屋敷稲荷神になる。  
祭神は春日大明神、八幡大菩薩、稲荷大明神、速玉明神 ( はやたまみょうじん ) を祀る。
商売繁盛、足止めの神としても知られ、家出人の行方を知り、家に帰らせるとの信仰篤い。
  
歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
平安時代末、熊野信仰に伴い九条家が勧請したという。
新宮社と称した。かつて現在地の北、東九条岩本町にあったという。
江戸時代、300-400年前、社殿が存在した。往時、境内は現在地の東にあった。
400坪 ( 1 322㎡ ) の境内の森は、「 しのもりさん 」 と称されていた。 ( 社伝 )
 
近代、1879年、一村一社寺令により、旧東九条村に祀られていた3社のうち、新宮神社は
境内地没収、廃社になる。宇賀神社 ( 札辻、南区東九条東札ノ辻町 ) は残された。
薬院神社 ( 烏丸 ) は成興寺 ( 南区東九条烏丸町 ) に遷される。 ( 社伝 )
1880年、新宮神社は九条家宮廷跡の一角だった現在地に、新たに社を建立した。 ( 社伝 )
 
九条家 公家・九条家は、平安時代末の藤原忠通 ( 1097-1164 ) の三男・藤原 ( 九条 )
兼実 ( 1149-1207 ) に始まる。 藤原基経 ( 836-891 ) の創建とされた九条の九条殿に
因み家名由来になった。
 
九条家は、藤原北家の嫡流であり、五摂家の一つに数えられた。 
鎌倉幕府と関わり深く、兼実は源頼朝と結び、兄・基実 ( 1143-1166 ) の近衛家と対立、
摂関家は二分された。
 
兼実の孫、道家の子・教実 ( 1211-1235 )、良実 ( 1216-1270 )、実経 ( 1223-1284 )が
摂関となり、( 後 ) 九条家、二条家、一条家を立て五摂家となる
 
京都風光 HP の 「 新宮神社 」 の記事を転載。
 
拝殿からの眺め。

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竹田街道に面した、不思議なお店を見つけました。 
「 懐古的未来 」 と書かれている札がありました。
 
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なぜか窓にウルトラマンが置かれてありました。

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帰宅してからネットで検索してみると、女性専用の宿泊施設でした。
 
以上。

京都 京都市東山区 田中神社  

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十条駅を降り、十条通を東へ1㎞ほどの所に、田中神社が鎮座されます。
 
途中で鴨川を渡ります。

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大都会を流れますが、綺麗な水です。
 
すぐそこに伏見大社が鎮座されますので、伏見区かと思いましたら東山区でした。
区境に鎮座されるのです。
 
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拝殿に向かって右に手水舎。
 
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水は出ませんでしたので、龍神様には元気になっていただくことが出来ませんでした。

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旧社名 飛鳥田神社 山城国紀伊郡
現社名 田中神社 ( 論社 )
 
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主祭神 田中大神
火焚祭 十一月十一日 午後二時
     月次初午祭、祈年祭、新嘗祭時、本社より巡拝。
構造  一間社世棚造 銅板葺
建立  正保二年 ( 1644 )
 
この神社は伏見稲荷大社の境外摂社で、社殿には正保二年 ( 1644 ) の棟札が残されて
いる。 
 
昭和七年には大修理がなされ多くの部材が取り替えられたが、蟇股 ( かえるまた )や
虹梁 ( こうりょう ) 等は、彫刻絵様当から見て、正保造営時まで遡ることが出来るもの
と考えられる。 境内には正保造営時奉納の石燈籠や天保十三年 ( 1700 ) 寄進の
手水鉢がある。
 
創建は不明だが、古今著聞集や十訓抄にはすでに田中の社の記述があり、次のような
話しが伝わっている処から、和泉式部の在世の一條天皇 ( 在位986~1011 ) 御代には
建立されていた。
 
平安期の歌人和泉式部が稲荷参詣の途次、田中の社近くで時雨 ( しぐれ ) に会い
難渋している時、田を刈る童から 「 あお」 ( 雨具 ) を借り、無事にお参り出来たので
童に 「 あお 」 を返した。 すると翌日、童から式部に和歌が贈られてきた。
 
時雨する 稲荷の山の もみじ葉は あおかりしより おもいそめてき
 
平安の昔より社名の如く五穀豊穣の神様として、今日まで永く信仰されてきた神社である。
 
                                              ( 境内説明文 )
 
拝殿からの眺め。

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 以上。

京都 京都市伏見区 寺田屋界隈

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中書島 ( ちゅうしょじま ) 駅を降りると、小さな酒樽が積まれていました。

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その横には坂本龍馬の写真。
 
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幕末のまち 伏見。
 
寺田屋は三十石船に乗る人々が利用した船宿で、宿のすぐ目の前にある寺田屋浜は
大阪八軒家 ( 現天満宮付近 ) まで舟運で結ばれていました。
 
幕末の慶応二年 ( 1866 )、薩摩藩の定宿でもあった寺田屋にいた坂本龍馬を、伏見
奉行所配下の捕り方が襲撃しました。 龍馬を暗殺しようと狙っていたと言われています。
 
破壊傷を負いながらも、命からがら逃げた龍馬は、傷を癒すために妻となったお龍を伴い
三十石船に乗って薩摩の霧島へと淀川を下っていったのでした。 
これが日本で最初の新婚旅行だと言われています。
 
かつて 「 伏水 」 と書かれた伏見は、古来から良質の水が豊富に湧き出る地。
その水から造られる酒は、まろやかで口当たりがよいとされてきました。
天下を統一した豊臣秀吉は、この地に伏見城を築城。 全国から集められた大勢の大工や
職人の数と比例するように、消費される酒と酒蔵は造化しました。
 
江戸時代前期には、伏見の酒造業者数は八十三、一万五千石余の醸造量を誇り、国内
有数の産地として栄えます。 今では日本全国はもちろん世界各国でも愛されている伏見の
酒。 それは先人たちの絶え間ない努力と酒造りにかける熱い思いの贈り物なのです。
 
                                                 ( 説明文 )
 
伏見は酒どころ、寺田屋は伏見、と知ってはいましたが、式内社巡りのために降りた中書島
が酒どころの中心地であり、寺田屋があったとは。 驚きました。
「 伏見 」 は元々は 「 伏水 」 と表されていた、ということも初めて知りました。
「 伏流水が豊富なところ 」 というのが 「 伏見 」 という地名の由来だったのです。
 
そればかりでなく、日本最初の市電がここにありました。
 
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我が国最古の電車路線であった伏見線 ( 塩小路高倉~中書島間 ) 7.1㎞ は
昭和45年3月31日限りをもって廃止した。
 
伏見線の歴史は長く、最初は京都電気鉄道(株)の手によって塩小路東祠院~油掛町間
が明治28年2月1日に日本初の路面電車として開通し、大正3年3月31日と同年
8月25日に延長部分が開通して中書島に達した。
 
一方稲荷線は、明治38年8月4火に開通したが、両線とも大正7年7月1日に
京都市が買収し、大正12年6月26日から狭軌から広軌に変更して運転した。
この路線は、由緒ある路線だけに、専用軌道区間や酒蔵の並ぶ風格のある街並みを
走って人気があった。
 
京都市
                                               ( 説明文 )
 
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中書駅の南側を宇治川が流れ、宇治川の流れを引き込んだ形で宇治川派流 ( はりゅう )
が流れています。中書島は宇治川と宇治川は流れに囲まれた島になっています。
 
寺田屋は中書島駅から北に300mのところにあります。

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寺田屋は、その前に寺田屋浜という船着き場を持つ船宿だったそうです。
 
蓬莱橋から眺めた宇治川派流。
 
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寺田屋。

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提灯には、刀の束に二匹の龍が向かい合っている絵が描かれています。
寺田屋の家紋ですかね。
 
庭に入ってみました。
 
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庭に入ってすぐ右に 「 お登勢明神 」 が鎮座されます。
 
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坂本龍馬とお龍さんを結んだ寺田屋の女将お登勢は、百年祭を記念に神と祭られ、
将来の若き男女の守り神となりました。
 
寺田屋保存会
                                            ( 説明文 )
 
庭の奥に殉難碑が建てられています。
殉難碑の前には、坂本龍馬の像が立てられていました。
 
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寺田屋騒動址。
 
文久二年 ( 1862 ) 4月、尊皇攘夷派の先鋒であった薩摩藩士九名が殺傷されるという
明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。
 
当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王
討幕を主張する急進派の二派があったが、久光は急進派の動きを押さえようとして、
兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。 
 
これを知った有馬新七ら三十余名の急進派同志は、文久二年 ( 1862 ) 4月23日、
関白九条尚忠、所司代酒井忠義を殺害すべく佐綱藩の船宿であった寺田屋伊助に
集まった。
 
これを知った久光は藩士奈良原ら八名を派遣し、新七羅の計画を断念さすべく説得に
努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら七名が斬られ、二人は重傷を負い、翌日切腹した。
 
後ろの広場にある殉難碑は明治二十七年 ( 1894 ) の建立で、有栖川宮熾仁新王の
筆になる●額を掲げる。
 
京都市
                                            ( 庭の説明文 )
 
寺田屋に入ってみました。多くの龍馬ファンが観覧されていました。
小さな旅館ですので、観覧のコースは決まっており、まず二階に上ります。
 
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梅の間と名付けられている部屋が、龍馬がお気に入りだった部屋だそうで、龍馬の像が
掲げられておりました。

 
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エアコンは、雰囲気が損なわれないように黒色に塗られていました。
 
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驚いたことに、寺田屋は宿泊することができます。
パンフレットに宿泊の案内が書かれていましたので、転載します。
 
  宿泊の問い合わせ電話  075-622-0252 ( AM 10:00~PM 8:00 )
料金  素泊まり      6,500円
     朝食付き      別途 500円
予約制            予約は1ヶ月前より受付
 
建物内に酒類、食品の持ち込み禁止。
全館、禁煙、禁酒。
日曜日と月曜日は、予約が受け付けられません。
 
時間             チェックイン PM 6:00 ( 門限 PM 8:00 )
 
泊れる部屋         2階の梅の間以外の5部屋になります。
 
史蹟に泊まるのですから、規則は厳しいですね。
PM8:00が門限で、館内で酒が飲めないというのは健康的ではありますが...
 
一階に降ります。

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お風呂場。
 
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お龍さんがここに入っていて、窓外に多数の捕り方がいることに気付き、二階に駆け
上がって龍馬に教えたため、龍馬は不意打ちを受けることなく応戦出来ました。
負傷しつつも脱出し、その後傷を癒すために宮崎に出かけます。
これが日本初の新婚旅行とされています。
 
大河ドラマ 「 勝海舟 」 では当時人気絶大だった藤岡弘が龍馬を、川口晶がお龍さんを
演じていました。

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寺田屋から中書島駅に少し戻った所に、黄桜記念館 カッパカントリーがあります。
 
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お酒造りを見学出来たり、レストランでお酒を楽しむことが出来るそうです。
もう少し戻ると、平成5年まで月桂冠(株)本店として使われていた「 伏見夢百衆 」。
80種の日本酒が楽しめるそうです。
 
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お酒やお土産もたくさん売られています。
 
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一人で飲んでも仕方がないので、「 みんなと来たいので写真撮ってよいですか?」
と尋ねて撮らしてもらいました。 
関西支社の人々を誘って、昼間から飲んだくれるのも楽しいかな、と。
 
伏見のマンホールには、宇治橋が描かれています。
 
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以上。

京都 京都市伏見区 三栖神社 ( みすじんじゃ )

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三栖神社は、中書島駅から西へ800mの所に鎮座されます。
 
宇治川派流に架かる肥後橋。

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星乃珈琲の後方に鎮座されます。

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拝殿に向かって左に手水舎。
 
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拝殿に向かって右に御神木の銀杏が聳えています。
根元から幹が4本の幹に分かれていました。
 
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三栖神社の創建の詳細は不明であるが、旧下三栖村の産土神として古くからこの地で
侵攻を集めていた。 天武天皇、伊弉諾大神 ( いざなぎのおおかみ )、応神天皇を祀る。
 
現在の社殿、社殿は慶長八年 ( 1603 ) 9月に旧幕臣角倉了以 ( すみくらりょうい )、
加藤清正公の家臣の横地助之蒸 ( すけのじょう )、三栖の郷士藤林時次の三氏等
氏子が戮力協心 ( りくりょくきょうしん、一致協力して物事に取り組むこと ) して造営した
ものである。
 
本社の例祭に炬火祭 ( たいまつまつり ) がある。 神幸祭の宵には、宇治川に自生する
葭 ( あし ) で作られた大炬火に火を灯し、神輿巡幸の先導として竹田街道を巡行する。
 
この行事は約1300年前、壬申の乱において大海人皇子 ( 天武天皇 ) が近江朝廷との
決戦に向かう途中、三栖地域を通過された際に住民がかがり火を灯し、暗夜を照らして
歓迎したという伝承に因むものである。
 
戦後一時途絶えたが、平成元年より再興され、京都市登録無形民俗文化財に選定されて
いる。
 
京都市
                                              ( 境内説明文 )
 
天武天皇を祀るお社はめずらしいですね。
壬申の乱において三栖村を通られたという縁から、祀られているようですが御由緒の詳細は
わかりませんでした。
 
拝殿向かって右に、弁財天社が鎮座されます。
 
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空堀の中に鎮座されます。
神社は空堀でぐるっと囲まれておりました。
市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと ) ですので、かつては水が張られていたのでしょう。
 
拝殿からの眺め。
 
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以上。

京都 京都市伏見区 田中神社 ( たなかじんじゃ )

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中書島駅から西へ1.5㎞のところに田中神社が鎮座されます。
 
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「 馬の神様 」 と書かれてあります。なぜでしょう?

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向かって右に手水舎。
 
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龍神様には元気になっていただきました。
 
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境内には、変わった形の木々が聳えています。
 
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拝殿の前には、馬の像が置かれています。

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形がいびつなので奇妙な感じを受けたのですが、よく見ると一木造です。
大木だったのですね。
 
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ここもいびつです。
 
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式内社 飛鳥田神社 山城国 紀伊郡鎮座 ( 論社 ) 
現社名 田中神社
 
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田中神社由緒
 
御祭神 建速素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神
 
当社は下鳥羽・横大路の産土神で平安時代後期治暦年間 ( 1065~1069 ) に祇園
感神院 ( 現在の八坂神社 ) より勧請。 
 
社伝によると当初は下鳥羽田中里に社殿があり、牛頭天王田中神社と称していたが、
天正年間 ( 1573~1592 ) に起こった大洪水により本殿が流されて現在地に無傷で
漂着したといわれ、氏子はその奇跡に大変驚き、総出で境内の造作をするとともに
盛大な祭りを行ったと伝えられている。
 
本殿は文化十三年 ( 1816 ) に前年の火災の後再建されたもので、大型の一間社
流造。拝殿は平成八年に再建復興したものである。 現在は厄除・家内安全また
馬の神様として氏子区域だけではなき広く崇敬を集めている。
 
境内に鎮座する北向八幡宮は、夜泣き・癇の虫封じの神様として崇められており、
平安時代、憲平親王 ( 後の冷泉天皇 ) は癇の虫がひどかったが、母藤原安子が
この八幡宮に祈願したところ、たちどころに平癒したと伝えられ、以後は御所を守護
するために北向きに社殿が建てられ北向き八幡宮と称されるようになった。
 
祈願する者はよだれ掛けを奉納する風習がある。
明治五年 ( 1872 )、草津湊より田中神社境内に遷座。
 
                                         ( 境内説明文 )
 
御由緒を読んでも、馬の神様と陽ばれる理由はわかりませんでした。
ここから南西に3㎞のところに京都競馬場が在りますが、関係あるのかな。
 
拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。
左が出雲社、右は春日社です。
 
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さらに左には仏像が祀られる祠がありました。
 
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本殿は耐震補強されていました。
 
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本殿の右に七福神が祀られていました。
 
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拝殿の右に境内社が鎮座されます。
左は草薙社、右は雲水社です。
 
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拝殿に対面する形で、北向八幡宮が鎮座されます。

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北向八幡宮のとなりに遥拝所があります。
 
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京都・滋賀に鎮座される神社には、遥拝所がある事が多いです。
たいていは橿原神宮( 神武天皇 )・明治神宮( 明治神宮  ) ・伊勢神宮( 天照大神 ) 
の遥拝所ですが、何どちらの遥拝所なのか書かれてないことも多く、こちらの遥拝所も
書かれておりませんでした。
 
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拝殿からの眺め。
 
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以上。

京都 京都市伏見区 飛鳥田神社 ( あすかたじんじゃ )

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田中神社から南西へ500mのところに飛鳥田神社が鎮座されます。
中書島駅からは2㎞の距離です。
田中神社と飛鳥田神社は、式内社:飛鳥田神社の論社です。
 
ステンレス加工の和光製作所の隣に鎮座されます。
 
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境内の入り口。

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右の茶色の部分は和光製作所の敷地。
手前の灰色は和光製作所の敷地に掛けられた橋。
そして和光製作所の塀の隣を抜けて境内へ。
 
これはいけません。
和光製作所への不法侵入ですので、ぐるっと表参道へ廻ります。
 
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右に手水舎。
 
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左に飛鳥田神社が鎮座されます。
いかにも山城国鎮座のお社です。社殿が美しいい。
 
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式内社 飛鳥田神社 ( 論社 ) 山城国 紀伊郡鎮座  
現社名 飛鳥田神社 
旧社格 村社 
 
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京都市登録有形文化財 飛鳥田神社本殿
 
飛鳥田神社は別雷 ( わけいかづち )・市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと ) を
祭神とし、創建については確かなことはわからないものの、「 日本紀略 」 には飛鳥田神
についての記載がみられる。
 
ただし、式内社飛鳥田神社が当社であるかどうかについては明確ではないが、延喜式
神名帳に 「 一名柿本本社 」 とあることから、柿ノ本町に建つ当社が式内社である
可能性は十分に考えられる。
 
中世以降の状況については、享保十九年 ( 1734 ) の 「 山城志 」 に記された上梁文
からもうかがうことができ、これによると応永二十五年 ( 1418 ) に社殿が造営され、
その後文明九年 ( 1477 ) ・ 天正四年 ( 1576 ) 。慶長十九年 ( 1614 ) に修理、
また文禄五年 ( 1596 ) に屋根葺替が行われていたようである。
 
さらに十七世紀半ば頃には境内の整備が進められたものと推定され、境内正面の
鳥居に 「 慶安五壬申年 / 嶋瀉弁財天御宝前 」、また手水鉢には 
「 嶋瀉弁財天御宝前 / 御宝前 / 明暦三年 / 五月日 」 の 刻銘がみられる。
 
覆屋のなかに建つ本殿は、大型の一間社流造の建物で、建築年代に関する史料を欠く
ものの、全体に木割が太くて装飾が少ない点、また蟇股 ( かえるまた ) や 実肘木
( さねひじき ) ・虹梁 ( こうりょう ) の形状などから、境内の整備が行われた
十七世紀半ばころまでに造営されたものと考えられる。
 
一部改変を受けているものの当初の姿を著しく損なうものではなく、また柱頭ぬ舟肘木
{ ふなひじき ) を落とし込んで柱が直接桁を支持するという特異な手法が採用されて
いる点に特色がみられる。
 
平成七年㋂二十日指定 京都市
                                             ( 境内説明文 )
 
式内社:飛鳥田神社の論社は4社有ります。
拝殿に向かって左に境内社が鎮座されます。
手前の黒いお社は出雲社。奥は稲荷神社です。
 
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本殿の右後方に鎮座される石神社。 ( 御祭神 大己貴神 )
 
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拝殿の右前方に境内社が鎮座されます。
左は春日社、右は貴船社です。
 
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拝殿の前に遥拝所があります。
 
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以上。

京都 宇治市 巨椋神社 ( おぐらじんじゃ )

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飛鳥田神社から近鉄桃山御陵駅へ向かいましたら、途中で 「 あわしま堂 」 の
伏見第二工場の横を通りました。
 
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我が故郷愛媛の八幡浜市に同じ字を書く 「 あわしま堂 」 という和菓子の会社が
あります。 京都伏見の 「 あわしま堂 」 は有名ですので、同じ社名の和菓子会社が
2つあると思っておりましたが、八幡浜市の「 あわしま堂 」 の伏見工場でした。
 
近鉄小倉駅から北東300mのところに巨椋神社は鎮座されます。
 
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もみじが描かれています。
 
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飛び出してしまったお嬢ちゃんは、ギブスの割り箸で治療中です。
 
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飛び出し坊や。
 
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右に手水舎。
 
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拝殿に向かって左に子安神社が鎮座されます。
 
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子守神社は、第55代・文徳天皇皇子の惟喬 ( これたか ) 親王が、子供の愛護のため
に建立したという。
 
伝承が残る。昔三疋 ( ひき ) の大鳥が、どこからともなく飛んできて子供を悩ませた。
天皇はこれを聞き、惟喬親王に命じ、弓矢を持たせ諸国を廻り退治させた。
親王は、河内の渚の院で大鳥を射とめ、その帰途に小倉村中の小路に立ち寄る。
この地に、天磐樟船神 ( あまのいわくすぶねのかみ ) を祀り、子守大神を創建したもの
という。以来、子供の守護神になる。
 
祀られている子供守護尊像は、子守大神奉祀の際に祭祀された石像を摸したもので、
夜泣き、かん虫、病いの霊験あるという。
なお、この子守神社こそが巨椋連を祀った本来の神ともいう。
 
( 京都風光のHPを転載しました )
 
拝殿は、随神門を横に広げたような形をしています。

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絵馬が掲げられています。
 
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式内社 巨椋神社 山城国 久世郡鎮座 
現社名 巨椋神社 
旧社格 村社 
 
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近鉄京都線小倉駅北東、大和街道沿いに巨椋神社 ( おぐらじんじゃ ) はある。
旧小倉村の産土神として崇敬されてきた。 
 
祭神は武甕槌神 ( たけみかづちのみこと )、経津主神 ( ふつぬしのかみ )、天児屋根神
( あめのこやねのかみ )、姫大神 ( ひめのおおかみ ) を祀る。
 式内社。平安時代、『 延喜式神名式 ( 延喜式神名帳 )』 ( 927 )中 「久世郡 二十四座
 大十一座 小十三座 」 の 「 巨椋神社 」 に比定されている。
 
古代 ( 奈良時代-平安時代 )、巨椋氏の氏神として祀られたとみられている。
巨椋連 ( おぐらのむらじ ) の祖神を祀ったともいう。
平安時代初期、第52代・嵯峨天皇 ( 786-842、在位809-823 ) の勅命により創建された
ともいう。
第55代・文徳天皇皇子・惟喬 ( これたか ) 親王 ( 844-897 ) が、子供の愛護の
ために子守神社を創建したという。
 
平安時代末期、藤原氏を祀り、春日神社と呼ばれる。
以後、近世 ( 安土・桃山時代-江戸時代 ) まで、春日神社と称された。
その後、巨椋神社と改称された。 
 
巨椋氏 
 
古代豪族の巨椋氏は、平安時代の 『 新撰姓氏録 』( 815 ) に、神別氏族
( 初代・神武天皇以前の神代に別れた、あるいは生じた氏族404氏 )のひとつとして
記されている。木地師集団であり、大和政権の家臣姓のひとつ連 ( むらじ )、巨椋連を
名乗った。
 
巨椋氏は旧巨椋池の東、南部に住していたとされる。
当社もその氏神として祀られたとみられている。 (『 京都大事典 』)。
池には宇治川、桂川、木津川が流入し、古代より開発され港津が開かれていた。
池は、1941年に干拓事業により埋め立てられている。
 
惟喬親王 
 
平安時代中期の皇族・惟喬親王 ( これたか しんのう、844-897 )。
第55代・文徳天皇の第1皇子、母は紀名虎の娘静子。
850年、右大臣・藤原良房の娘明子との間に第4皇子惟仁親王 ( 第56代・清和天皇 ) 
が生まれ皇太子としたため、惟喬親王は皇位継承できなかった。
 
858年、大宰帥、863年、弾正尹、864年、常陸太守となり、上野太守に任じられたが病に
より辞し出家した。素覚と号し洛北小野 ( 左京区 ) に隠棲、ここで亡くなった。
紀有常、在原業平と親交あり河内国の別業 「 渚の院 」 へ招いた。
伝承として木地師の祖神として各所で仰がれた。 
 
( 京都風光のHPを転載しました )
 
本殿の後方に、境内社が鎮座されます。
左は天満宮、右は 【 「 大国主神社・辞代主神社 」・勝手神社 】です。
 
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辞代主神社 は ( ことしろぬし ) 神社 で、事代主神社です。
勝手神社は、おそらく吉野の勝手神社だと思うのですが不明です。
 
本殿の右に八幡神社が鎮座されます。
 
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境内は広場になっています。
 
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拝殿からの眺め。
 
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以上。

京都 宇治市 伊勢田神社 ( いせたじんじゃ )

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近鉄京都線伊勢田駅から西へ500mのところに伊勢田神社は鎮座されます。
 
伊勢田駅は小さな駅でした。
 
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宇治市の木かえでが描かれています。

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住宅街を歩き、参道の始まりにたどり着きました。
 
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手前は御社名不明の境内社、奥は手水舎です。
 
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拝殿の手前で、参道を横切る道があります。
 
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伊勢田神社の拝殿に向かって左に、作田神社が鎮座されます。
 
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御祭神 大歳神
 
伊勢田神社の拝殿。
 
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式内社 伊勢田神社三座 山城国 久世郡鎮座 
現社名 伊勢田神社 
旧社格 村社 
 
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近鉄京都線伊勢田駅の北西に、小社、伊勢田神社 ( いせた じんじゃ ) がある。
境内は北東から南西に位置している。この地はかつて、巨椋池の南岸に当たった。
当社は、旧伊勢田村の産土神として崇敬されてきた。 
 
祭神は、天照大神 ( あまてらすおおみのかみ )、多力雄神 ( たぢからおのみこと )、
萬幡豊秋津姫命 ( まんはたとよあきつひめのみこと )。
また、大蔵御祖命 ( おおとしみおやのみこと ) の御子の八柱木 ( やはしらぎ ) を祀った
ともいう。(『山城国風土記』逸文)
 
式内社。
平安時代、『 延喜式神名帳 』( 927 )中「 久世郡 二十四座 大十一座 小十三座 」 の
「 伊勢田神社三座 鍬靫 」 に比定されている。
 
奈良時代、859年、伊勢田神に従五位下が授けられた。( 三代実録 )
平安時代、『 延喜式神名帳 』 ( 927 ) に伊勢田神社と記されている。
その後、伊勢神宮 ( 伊勢市 ) との関わりを深めたとみられる。
平安時代末期、天照大神を勧請したという。
近世(安土・桃山時代-江戸時代)、梵天王ノ社(ぼんてんのうしゃ)と称された。
(『山城名跡巡行志』、1754)。
 
近代、1873年、村社に列せられる。1877年 ( 1873年とも )。
式内社に比定される
 
( 京都風光を転載しました。)
 
本殿の左後方に、春日社が鎮座されます。
 
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本殿の後方には、宇治市名木百選の椎の木が聳えています。
 
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本殿の右には御神木が聳えております。
 
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御神木 招霊木 ( おがたまのき ) 
 
モクレン科のこの木は、常緑樹で現在神社に於いて榊を祭事に使っていますが、昔は
招霊木で神様をお招きし、祭事におこなったり、神様にお供えしてまいりました。
 
また、天照皇大神様岩戸隠の際、天鈿女命 ( あめのうずめのみこと ) 此の木の枝を
お持ちになり舞を奏し、皇大神様、岩戸よりお出ましいただき再び明るい平和な時代が
まいりました。 
各神社で使用しております招霊に神を招くことの意で繁栄・幸福を招くと伝えています。
 
常陸宮殿下御誕生の折、宮家の御紋章として御霊の花を採用されました。
一円硬貨の裏の絵柄になっています。
 
昭和六十二年十月、九州方面にまいりましたをり、宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸
の岩戸神社をお参りし、神社より譲受け持ち帰りました。
繁栄幸福を招くと伝えられる御神木です。当伊勢田神社に御参拝下さる心豊かな神聖
なる人々に幸いを招くという祈願のため植樹申し上げた次第です。
 
伊勢田神社 総代一同
                                           ( 境内説明文 )

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拝殿に向かってみぎに住吉大神が鎮座されます。
 
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住吉大神
 
古 ( いにしえ ) より洋々たる水豊かな巨椋池の守護神とし、我が村の水の神と崇め
魚類の豊漁を願い、生活の過程、豊かならんと古人 ( いにしえびと ) の信仰の的で
近年、都市化のため環境の悪化により、伊勢田村南西地より平成三年七月吉日
伊勢田神社境内に遺跡として移築し、構成に泉が沸くが如く尚一層の幸をお祈り
申し上げる次第です。
 
宮司 宮本孝夫 
神社総代 一同
                                            ( 境内説明文 )
 
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拝殿からの眺め。
 
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以上。

京都 宇治市 旦椋 ( あさくら ) 神社

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近鉄線大久保駅は大きくて立派なので、驚いてしまいました。
宇治を越え、この先は田舎ばかりだろうと甘くみておりました。
 
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旦椋神社は、大久保駅から南へ300mのところに鎮座されます。
 
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参道。
 
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参道の途中を道が横切っています。

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左に手水舎。
 
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中央が通り抜けられる形の拝殿は、この辺りには多いように思います。
 
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拝殿の前に牛の像が奉納されています。

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式内社 旦椋神社 山城国 久世郡鎮座 
現社名 旦椋神社 
旧社格 村社
 
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式内 旦椋神社
御祭神 高皇産霊神 ( たかみむすびのかみ )
      神産皇霊神 ( かみむすびのかみ )
      菅原道真公 ( すふがはらみちざねこう )
 
縁起
 
当旦椋神社は、養老四年 ( 720 ) の日本書紀に栗隈県 ( くりくまのあがた ) の大溝
( おおうなで、栗隈大溝 ) の東側 ( 地名 旦椋 ) に、古社としてあったと伝えられて
いますが、この社は天分十九年 ( 1550 ) に焼失しました。
 
現在の社は、大久保町旦椋の地より永禄九年 ( 1566 ) に此の地に移転再興された
ことが、吉田兼右 ( かねすけ ) の 「 兼右卿記 」 に見えます。 また、延喜年間 
( 901~923 ) に編纂された延喜式に記載されている神社を延喜式内社と呼び、
旦椋神社もその中の一つです。
 
本殿は延宝二年 ( 1674 ) に改築されたもので、京都府登録有形文化財に指定 
( 昭和60年5月 ) されました。
                                                                
                                           ( 境内説明文 )
 
境内説明文では由緒がよくわかりませんので、「 京都風光 」 の記事を転載します。
 
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宇治、近鉄大久保駅の南西、府道15号線の南に旦椋神社 ( あさくらじんじゃ ) はある。
近世には、栗隈 ( くりくま ) 天神とも呼ばれた。 胄 ( かぶと ) 神社とも呼ばれたという。
平安時代の以仁王 ( もちひとおう、1151-1180 ) の胄を祀っていたためという。
ただ、社伝などに記述はない。
 
当社は、旧大久保村の産土神として崇敬されてきた。
祭神は、高皇産霊命 ( たかみむすびのみこと ) 、神皇産霊命 ( かみむすびのみこと )、
天満天神 ( 菅原道真 ) 。
式内社。
平安時代、『 延喜式神名帳 』( 927 )中、「 久世郡 二十四座 大十一座 小十三座 」 の
旦椋神社に比定されている。
 
奈良時代、旦椋 ( あさくら ) 神社は、現在地の西方、栗隈県 ( くりくまあがた )
( 宇冶市大久保町旦椋 ) の地にあったという。( 日本書記 )。
栗隈県 ( くりくまあがた ) の屯倉跡 ( みやけ ) 跡に穀霊を祀ったことに始まるという。
栗隈大神とも呼ばれた。また、浅食 ( あさくい ) に鎮座していたともいう。
 
平安時代、972年、『 延喜式神名帳 』 に旦椋神社と記されている。
室町時代、1550年、旦椋神社は現在地に遷座した。 同時期、天満天神を合祀した。
また、1550年、旦椋神社は焼失したともいう。(社伝)。 現在地に遷されたともいう。
 
1566年、現在地にあった天満天神が20余年断絶していた。 天満天神を再興し、
旦椋神社と天満天神を合祀したという。
本殿が造営され、京都吉田神社神官・吉田兼右が再興に尽力したという。( 社伝 )
 
本殿は一間流造。 京都らしい美しい社殿です。
 
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本殿の左後方に鎮座される愛宕神社。
 
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本殿後方には、宇治市名木百選に選ばれた御神木の椎の木が聳えています。
 
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拝殿からの眺め。
 
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以上。

京都 久世郡 双栗 ( さぐり ) 神社 

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旦椋 ( あさくら ) 神社 から西へ2㎞のところに双栗神社が鎮座されます。


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こちらのお社の拝殿も中央を通り抜けるタイプです。
 
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拝殿の手前に水盤。
 
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式内社 双栗神社 三座 山城国 久世郡鎮座 
現社名 双栗神社 
旧社格 郷社
 
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重要文化財 双栗神社本殿
 
御祭神 天照大神  ( あまてらすおおかみ )
      素戔嗚命  ( すさのおのみこと )
      事代主命  ( ことしろぬしのみこと )
      応神天皇  ( おうじんてんのう )
      比大神  ( ひめおおかみ )
      仁徳天皇  ( にんとくてんのう )
      神功皇后  ( じんぐうこうごう )
 
当社は貞観元年 ( 859 ) 正月 二十七日に、従五位下の神位を賜い延喜の制には
小社に列せられ、また 「 延喜式神明帳 」 にも山城国久世郡双栗神社三坐と記されて
あり、古くから神社の存在していたことがわかる。
 
延宝四年 ( 1676 ) の奥書を持つ 「 椏本 ( あてもと ) 八幡宮縁起 」 によると、応保
二年 ( 1162 ) 当宮に勅使が建てられ、勲一等を受け、神田を賜い、椏本一本八幡大菩薩
と号し、橘氏をもって神司と定められたという。
 
その後明治十五年 ( 1882 ) に至って、双栗神社と旧号に復されているが、創建時の本殿
の形式については明らかでなく、古記に応保二年に造営され、明応三年 ( 1494 ) には
屋根の葺替えを行ったと記されており、現本殿はこの明応三年に建立されたものと考え
られる。
 
昭和56年10月3日 久御山郷土史会
                                              ( 境内説明文 )
 
本殿の後方に御神木の楠が聳えております。
 
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久御山町指定天然記念物 双栗神社の楠 一本      双栗神社所有
 
樹高 30m、 幹回り 535cm、 根元周り 9.8m、樹齢 400~500年、 
平成8年2月29日指定
 
双栗神社の楠は、本殿の北側にあって、枝張りは東西29m、南北21mに及んでいる。
生育状況はよく、枝葉は茂って樹勢は旺盛である。また、空洞・欠損もなく着生植物も
少ない。
 
此の木についての言い伝えや古文書の記載は特にないが、本樹の傍には稲荷の祠が
祀られ、楠にはしめ縄が張られるなど、神木として大切に保護されてきたことがわかる。
樹形も優れ、また樹勢も旺盛であり、楠の巨樹として極めて貴重なものである。
 
なお、本樹は平成3年6月 「 京都の自然200選 ( 植物部門 ) 」 に選定された。
 
平成8年3月 久御山町教育委員会
                                             ( 境内説明文 )
 
拝殿からの眺め。
 
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神社のすぐ前に、バングラディッシュレストランがありました。
掲げられている国旗は、日の丸三兄弟のうちの1つです。

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以上。

京都 久世郡 室城神社 ( むろきじんじゃ )

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双栗 ( すぐり ) 神社から西へ1.5㎞ほどのところに、室城神社が鎮座されます。
おおまかな一は地図に書き込み、詳細はスマホの地図を確認すれば大丈夫、と高を
括っておりましたが、スマホに地図には室城神社が記載されておりませんでした。
 
あれこれ迷っていると、お婆さんが歩いて来られましたので尋ねてみました。
「 知っていますよ、私の散歩コースだから。 
  家の近くまで行くと見えるから教えてあげます。」 
 
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スマホで再び確認しましたが、かなり拡大しないと出てこないようです。
 
右に手水舎。
 
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水盤は2匹の龍が向かい合った、独特のデザインです。
 
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元気になっていただきましたが、色が薄いのでわかりづらいです。
 
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手水舎の反対側に遥拝所があります。
 
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広い境内で、拝殿の前で子供たちがボール遊びをしていました。
 
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式内社 室城神社 山城国 久世郡鎮座 
現社名 室城神社 
社格 村社
 
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延喜式内 室城神社
 
御祭神 邇邇芸命   ( ににぎのみこと )
      須佐之男命 ( すさのおのみこと )
      大雀皇子命 ( おおささぎのみこと、仁徳天皇 )
      迦具土之命 ( かぐつちのかみ、火の神 )
 
由緒
 
当社は、政務天皇の神亀年間 ( 724~729 ) に近国に大洪水があり、民衆が飢えていた
時、勅して天神地祇をこの地に奉祀したのが始りとされる。
 
また、同天皇の御代、悪疫流行に際し、当社に弓矢を献奉して、その退散を祈願された。
今に伝わる春祭 ( 矢形餅神事 ) の期限とされ、宍道では弓矢を象った特殊神饌が
供献される。
 
また、寛永七年 ( 1630 ) 木津川堤切により、当社の壮大な社殿が記録ともに流失した。
その後再建された現在の社殿は、規模が縮小され、今なお仮殿であると言い伝えられて
いる。
 
当社は境内に護国山神宮寺と称する宮寺を有していたが、明治維新に際し除かれた。
 
                                            ( 境内説明文 )
 
拝殿に向かって左に住吉社が鎮座されています。

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住吉社からの眺め。
 
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拝殿からの眺め。

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以上。

京都 久世郡 荒見神社 ( あらみじんじゃ )

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久世郡久御山町のマンホールには、町の花サツキカエルが描かれています。
カエルは、下水道のマスコットスマッシー君だそうです。 
 
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楯看板に描かれえた飛び出し坊や。
 
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室城 ( むろき ) 神社から北西1㎞のところに荒見神社が鎮座されます。
 
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参道の左に拝殿があります。

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拝殿の左に置かれているスクーターは宮司の物です。
宮司が清掃をされておりました。
 
式内社 荒見神社 山城国 久世郡鎮座 
現社名 荒見神社 
祭神 武甕槌命 應神天皇 仲哀天皇 別雷大神 倉稻魂命
       本来は大歳神一座
 
社格 村社
 
--- 境内の説明文は、かすれて読めませんでした。 京都風光の記事を転載します。
 
久御山町田井、木津川の東に荒見神社がある。 
祭神は武甕槌命 ( たけみかづちのみこと )、別雷大神  かもわけいかづちのみこと )、
倉稻魂命 ( うかのみたまのみこと )、第14代・仲哀 ( ちゅうあい ) 天皇、
第15代・応神天皇を祀る。
 
旧村社。式内社。
平安時代、『 延喜式神名帳 』( 927 )   久世郡 二十四座 大十一座 小十三座 
の荒見神社ともいう。
 
奈良時代、713年、山城国風土記に「 荒海の社 祇社。み名は大歳の神なり  と記され、
当社には大歳の神  おおとしのかみ  を祀っていたともいう。
平安時代、927年、当社は『 延喜式神名帳  中の  荒見神社  ともいう。 
 
江戸時代、1630年、木津川の水害により社殿が流出する。
その後、現在地に遷された。( 山城志、本殿棟札 )。
伝承によれば当初は、現在地のすぐ東南、西荒見、東荒見付近に祀られていたという。
 
1664年、当社号は五社大明神神社とあり、現在の本殿が再建された。( 本殿棟札 )
1775年、当社 ( 五社大明神 ) は、東西45間、南北26間の境内を有し、地蔵堂、
薬師堂も建てられていた。( 田井村神社明細帳 )
近代、1873年、当社が式内社とされる。( 久世郡神社明細帳 )
 
荒見神社 
 
荒見神社の荒見とは、荒水 ( 水害 ) の転訛であり、木津川の氾濫を鎮める水神を祀って
いたとみられている。
 荒海の社 祇社。み名は大歳の神なり 」( 713年 「山城国風土記」 ) と記され、
大歳の神  おおとしのかみ  を祀ったものという。
 
1873年、久世郡神社明細帳には、当社が延喜式神名帳の久世郡荒見神社とされている。
ただ、城陽市の荒見神社もまた式内社とされ、こちらが式内社比定に有力説ともいう。
 荒海の社  についても、両荒見神社の名が挙げられている。 
 
 
荒見神社から西に500mの所に木津川が流れています。 
昔はもっと近かったのかもしれません。
 
拝殿に向かって右に境内社の天満宮が鎮座されます。
 
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拝殿に向かって左に弁財天社 ( 厳島神社 )。
 
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本殿からの眺め。

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拝殿からの眺め。
 
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近鉄大久保駅まで4㎞ほどの距離がありますが、バスが1時間に3-4本ほど
走っており、乗って帰りました。
 
以上。

京都 城陽市 水主神社 ( みずしじんじゃ )

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近鉄京都線富野庄 ( とのしょう ) 駅から800m西の所に、水主神社は鎮座されます。
道がわからなかったので、少し広めの道を歩いていきました。
ぐるっと回りましたので、1.5㎞くらいは歩いたでしょう。

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拝殿は、やはり中央を通り抜けるタイプです。
 
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右に手水舎。
 
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拝殿をくぐり抜けようとしたら、鉄格子で遮られていました。
こういったお社は3つ目です。
 
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式内社 水主神社十座 ( 並大 月次/新甞 ) 山城国 久世郡鎮座
現社名 水主神社 
社格 府社 
 
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水主神社
 
水主神社は往古より世にきこえた名神大社なり。
 
其の祭神は天照御魂神  暁速日尊 )、天香語山神、天村雲神、天忍男神、建額赤神、
建諸隅命、建筒草命、建多背命、倭得玉彦命、山背大国魂命の十柱にして天照御魂神は
即ち火明命にて氏の高祖なり
 
第十世山背大国魂命にいたり山背に移り大に其の国に功烈あり
之を尊みて山背大国魂命という。 その子山城水主連となり世々其の祀を奉せしものなり
 
延喜式には水主社十座並大月次新嘗と定められ、特に天照御魂神と山背大国魂命とは
四季祭相嘗祭に預かり又祈雨大神の内に加わり仁寿貞観のころ加茂両社
松尾稲荷住吉大社等諸社と共に新年祈雨の奉幣あり
朝家御崇敬上下帰依信仰尤も厚しという。 
 
樺井月神社
 
祭神は月夜見命にて、今より1250年前、文武天皇大宝元年に神稲を賜り、貞観元年
従五位上に進叙せらる。 承和十二年五月、京畿に牛疫流行、殊に綴喜相楽両郡
斃死して、ほとんど尽さんとするや、当社に奉幣祈祷行われ、たちまち止む。
 
延喜式には大社に列し、四度官幣祈雨祭に預かれる事、国史に見ゆ。
古来朝廷より牛馬の守護神として祈願奉幣を賜るは当社以外に類を見ず。
なお当社は綴喜郡に鎮座せしも、度重なる木津川洪水のため280年前当社に遷座す。
 
衣縫神社と申すは、天地開け 豊縫野尊の御神徳にして、天照大神の時より、衣類の
女神の仕業として世に稀なり。
左右に坐す二柱の神達は神代、天香語山命の御子 天村雲命より九世の孫にて
人皇十三代成務天皇の御宇、淡海国志賀の高穴穂宮に使え奉り、糸縫い針の機業を
興し給う。
ゆえに末代の今に至るまでその職たる人達はこの大神を祖神として敬い奉り給う。
     
                                            ( 境内説明文 )
 
3つのお社が祀られています。
私が持って行った地図には、樺井月神社と書かれてありました。
 
拝殿からの眺め。
 
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富野庄駅の方向は判ります。
駅を目指して田圃道を歩くことにしました。
 
いちじく畑。

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スーパーでいちじくを売っていますから、いちじく畑はあるのでしょうが、見たのは初めて
でした。 私の田舎では、たいていの家の畑の中か家の庭に、ポツンと一本生えています。
 
以上。

京都 京田辺市 一休寺 ( いっきゅうじ )

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棚倉孫 ( たなくらひこ ) 神社から薪 ( たきぎ ) 神社に向かいます。
道路の上に安全運転を呼び掛ける横断幕が貼られていました。
 
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京田辺駅近くで出会った 「 飛び出し小僧 」 が描かれています。
これは 「 たなべいっきゅう 」 というキャラクターだそうです。
「 飛び出し小僧 」 は 「 飛び出し一休 」 だったのです。
 
薪神社へ向かう道は、 「 一休とんちロード 」 と呼ばれており、一休さんのエピソード
などが各電柱に掲げられておりました。

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飛び出し一休さん。
 
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飛び出し小僧さん。
 
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京田辺市のマンホールは、市の花:ヒラドツツジが描かれています。
 
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一休寺に到着しました。
 
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門の前に、薪能の記念碑がありました。
 
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薪能金春芝跡 ( たきぎのうこんぱるしばあと )
 
この付近で金春禅竹が一休禅師に猿楽の能を演じ観覧に供したと伝えられる。
金春禅竹 ( 1405~1470 ) は室町時代の能役者・能作者で、大和四座のひとつ
円満衣座 ( えんまいざ、金春坐 ) 太夫金春弥三郎の子である。
 
能楽の大成者世阿弥の娘婿となり、世阿弥の能を発展させ、金春流隆盛の基礎を
固めた。 「 六輪一露之記 」 ( 1455年成立 ) などの芸術論がある。
 
応仁の乱 ( 1467~1477 ) の際、一休が酬恩庵に難を避けていた間、禅竹も薪の
多福庵に移り、二人の間に交流があったとされる。 一休も禅竹の影響で能に関心を
示し、謡曲の 「 山姥 」 「 江口 」 は一休の作とも伝えられる。
 
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会
                                             ( 説明文 )
 
薪能というのは、薪をかがしながら演じるからそのように呼ばれると思っておりました。
ここが発祥の地だったのですね。
 
山門をくぐりますと、左に手水舎があります。
 
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いかにも京都ですね。
 
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沿革
 
当時の元の名は妙勝寺であって、鎌倉時代、臨済宗の高僧大應国師 ( 南浦紹明 ) が
中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場をここに建てたのが始めである。
 
然るにその後、元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当たる
一休禅師が康正年中 ( 1455〜6年 )、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩に
むくいる意味で 「 酬恩庵 」 と命名した。
 
禅師はここで後半の生涯を送り八十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われた
のであり、文明13年 ( 1481年 ) 11月21日八十八歳の高齢を以って当寺において
示寂され遺骨は当所に葬られたのである。 このように禅師が晩年を過ごされたことに
より 「 一休寺 」 の通称が知られるに至ったのである。
 
一休宗純
 
室町時代を生きた臨済宗大徳寺派の禅僧。 京都生まれで幼名は千菊丸。
後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれています。
6歳で京都の安国寺に入門し、周建の名前を授かりました。幼い頃より漢詩の才能を
開花させ、『 長門春草 』 を13歳のときに、15歳では『春衣宿花』を著しています。
 
一休の名付け親は大徳寺の高僧、華叟宗曇 ( かそうそうどん )。
一休の 「 有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け 」 の言葉
から、華叟が道号として授けました。その後、さまざまな人生の紆余曲折を経て、
1481年、88歳で病没。 一休寺で静かに眠っています。
 
酬恩庵一休寺のHPを転載しました。
 
 
続く。
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