随分前に、テレビで岡山県総社市の鬼ノ城の紹介がありました。
吉備津彦命 ( きびつひこのみこと ) と闘った温羅 ( うら ) が住んでいた山城で、その頃は
周りは入江であった、といった紹介があり、いつかは行ってみたいと考えておりました。
その後総社には何度か訪れておりましたが、鬼ノ城は山奥ということもあって、行くことが
出来ておりませんでしたので、車を借りてエイヤッと行くことに決めました。
それと一緒に、このBlog で紹介した大吉備津彦命の伝説地を巡ってきたのです。
途中、砂川公園という広い公園があり、家族連れや仲間の団体がバーベキューを
楽しんでおりました。 総社市のバーベキューのメッカといった感じです。
公園を過ぎると、細い山道になりました。
数十mごとに待機場所が造られていて、車がすれ違うことが出来るようになっています。
道が通されたときには、一台の車が走れる程度の幅しかなくて、交通量が増えたので
あちこちに待機場所を作ったようです。 こんなに頻繁に待機場所が作られている道は
初めてでした。
少し道が広くなったところにあった鬼の釜。
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口径約185cm、深さ約105cmの大きな鉄の釜です。 そこの一部が欠けています。
釜は鋳物で製作されたもので、鋳型のつぎ合わせた痕が明瞭に残されています。
その昔、鬼ノ城に住んでいた温羅 ( うら ) と呼ばれる鬼神がいけにえを茹でたと
言い伝えられていますが、江戸時代に近くの湯釜谷から出土したという事実からも
山岳寺院であった新山寺の湯屋に使用された湯釜と考えられています。
( 説明文 )
ここから少し先に進んだところに、鬼ノ城ビジターセンターがあります。
鬼ノ城の玄関みたいなところで、鬼ノ城遺跡に関する展示があります。
鬼ノ城の遺跡は、ビジターセンターから10分程度で行くことが出来ます。
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鬼ノ城は標高約400mの鬼城山に築かれた古代山城です。 吉備高原の南端に位置
しており、眼下の総社平野には集落が営まれ、官衙 ( かんが、役所 ) 寺院などが
造営されました。 また、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津 ( 港 ) から瀬戸内海
への海上交通に至便であり、まさに政治・経済・交通上の要地を一望できます。
築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため
出兵した白村江の海戦 ( 663年 ) において大敗した後、唐・新羅連合軍の日本進攻を
恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。 鬼ノ城は当時の
東アジア情勢を鋭敏には寧した遺跡と言えます。
平成16年1月 総社市教育委員会
( 説明文 )
現在の鬼ノ城は、白村江の戦いに敗れた直後に建築された山城の遺構でした。
七世紀後半です。
一方、日本書記によれば四道将軍の大吉備津彦命 ( おおきびつひこのみこと ) は
第十代崇神天皇の時代に派遣されています。
山門県 ( やまとのあがた、福岡県柳川市・みやま市 ) は邪馬台国の有力候補地で、
日本書記によれは第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后が、首長の田油津姫
( たぶらつひめ ) を殺しています。田油津姫を卑弥呼とする説があり、私も同じ意見です。
卑弥呼が三世紀半ばに亡くなっていますので、 四代前の天皇の時代といえばおおまかに
二世紀前半から二世紀半ば当たりになると思います。
温羅と大吉備津彦命が戦ったのが史実かどうかは別にして、朝鮮半島由来の人物が
治めていた集団 ( 吉備地方の軍隊 ) と大和朝廷から派遣された軍隊の戦いはあったと
私は考えています。
鬼ノ城は、吉備地方の軍隊の拠点であり、白村江の戦いの後に対新羅・唐の山城として
整備されたのではないだろうか?
人工的に加工されています。
展望台から眺めた鬼ノ城西門。
展望台からの眺め、平野はかつて入り江でした。
鬼ノ城 角楼。
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中国の城郭でいう馬面 ( ばめん )、朝鮮半島での雉 ( ち ) に当たります。
ここは尾根続きで責められやすいため、城壁の死角を補い防御力を高めることを目的
として、城壁の一部を長方形 ( 13×4m ) に張り出しています。
角楼の下半部は、両側の石垣と同じように石垣積みで、ほぼ4m間隔で一辺50cmの
6本の角柱が石垣の間に建っていたことがわかりました。 また城内側には、この施設へ
昇降のため石段が設けられています。
しかし、この上に建物などがあったかどうかは不明です。
最高所の鬼城山・西門と一体となっていて、強固な防御ゾーンを形成しています。
平成19年3月 総社市教育委員会
( 説明文 )
土塁と西門。
土塁は、中に繋ぎのようなものを入れていますが、表面が雨や風におとされて、外側に
現れています。
西門。
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西門跡は極めて良好な状態で残っていました。 12本の柱の一と大きさ、埋め込まれた
不可さ、各柱間の寸法も正確に知ることが出来、また通路床面の石敷や石段、敷石も
良く残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることが出来る。
そこでこれらの資料をもとに関連資料を参考にし、戦闘の場としての機能を考慮して
三階建ての城門に復元しています。 一階は通路、二階は城壁上の連絡路、三階は
見張りや戦闘の場としての機能をもつものです。 屋根は丁さと木にも瓦は出土して
いないので、板葺きにしています。
古代山城の城門の復元例としては、日本で初の事例です。
平成19年3月 総社市教育委員会
( 説明文 )
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鬼ノ城は、四ヶ所に城門を設けています。 いずれも掘立柱の城門で、通路床面に大きな
石を敷き、床面と城門前面に2m近い段差を持つ ( 懸門 ) ことを特徴としています。
西門は、南門と同規模の大型の城門で間口3間 ( 12.3m )、中央1間を通路とし、
2間の奥行をもち、12本の柱で上屋を支えます。 柱は一辺最大60cm の角柱を2mほど
も埋め込んでいます。
本柱に合わせたくり込み、方立柱穴、軸摺り穴、蹴り放しが一体的に加工された門礎を
もつのは鬼ノ城のもののみです。 西門は日本最大の古代山城大野城の大宰府口城門
( 間口 8.85m ) をしのぐ、壮大堅固な城門です。
平成19年3月 総社市教育委員会
( 説明文 )
内部から撮った西門。
角楼から眺めた西門。
西門から南門方面へ。
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敷石
鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石を多数敷き詰めています。 幅は基本的に1.5m幅
で、城内側の広い所では5m幅にもなる所もあります。 敷石は多くの区間に敷かれており、
総重量は数千トンにもなります。
この石畳のような敷石は、通路としての役割もあるものの、敷石の傾斜などからみて、
もともとは雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。 敷石は、
日本の古代山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。
平成19年3月 総社市教育委員会
( 説明文 )
敷石には、×印が彫られていました。
1400年前の傷とも思えないので、山城を復元したときに付けたものだと思うのですが、
なぜ付けたのか、ビジターセンターで尋ねるつもりでしたが忘れてしまいました。
第二水門
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水門と土塁
水門は、水流れに堪えるよう下部の内外面とも石積みにし、上端に取水口を設けており
上部は土を少しづつ入れて突き固めた版築土塁にしています。
規模は、第一水門が長さ14.6m、第ニ水門は16.4mです。
二つの水門の間にある土塁は、現状をよくとどめており、ここでも城外側に幅1.5mの
敷石の通路があります。
( 説明文 )
城を維持するために石を敷いて雨水のはけを良くして、貯水池にいったん貯めます。
それを放水するために水門を設けています。
鬼ノ城の周囲をぐるっと歩くコースが用意されていますが、私は第2水門から引き返す
ことにしました。
ビジターセンターで鬼ノ城の学習。
ビジターセンターの展示物は写真撮り放題ですので、展示物や説明文を合わせて
100枚ほど撮りました。 当初は全をBlogに掲載しようと考えていたのですが、
やめました。 放映されている説明ビデオもわかりやすかったですので、御興味が
ある方はぜひとも行ってみてください。
以上